私的山in新潟
私的中越地震
2004年10月23日からの三日間
中越地震から1ヶ月近く経って、もう大きな余震も無く安心していいのかなという気持ちになっています。自分の所はたいした被害も無く、何とか冬を越せそうな状態です。心にも余裕が戻り、あの時の事を振り返ってみました。
10月23日(土)
 仕事帰りに長岡市花園町を車(40〜50km/h)で走っていた時にそれは起こった。車が大きく左右に振られ、大きな地震だと気が付いたのは一瞬あとだった。車を停めたら、周囲は停電していた。家が心配になり、すぐ車を低速で走らせた。信号の止まった東バイパスは通行量が多いので横断できるか心配だったが、殆どの車が止まっていて通り抜けられた。家の近くの山際の道では土砂崩れが起きていて、木が道路上に倒れていた。木の枝に車体を擦られながら通過した。 
当時は右側車線にまで
木が倒れていた。
 家では家人がパニックになっていた。ガス栓を閉めて懐中電灯とその辺の着る物を持って車に戻った。その最中も大きな余震があった。その後は近くの農園の駐車場に車を停めた。余震が続く中、町内の人も車で集まってきた。どうなっているのかはラジオ情報だけ。最初はNHK-FMをつけていたが安否情報だけで、AMにしたら少しずつ事態が分かってきた。他県の親類に連絡を取ろうにも携帯はまったく繋がらない。21時過ぎに友人からメールがあったらしいが、電池を長持ちさせるために切ってあったので気が付かなかった。
 このままここで夜を明かすと思い、家から毛布や食料を取ってきた。晴れているのが不幸中の幸いだ。夜になると寒くて他の車がエンジンをかけた。自分も寒くてエンジンをかけてヒータをつけたら隣の車の排気ガスが入ってきた。こりぁかなわんと車を移動した。
 夜中に小便に起きたら、キーンと澄んだ空気の中で大きな月が出ていた。明るい夜だった。
10月24日(日)
 夜が明けて家へ戻った。家の外部は壊れている所はないようだったが、内部は酷いありさまだ。あらゆる物が仕舞われている所から飛び出し、立っているものは倒れ、吊っている物は傾き、家具のガラスは割れ、醤油とソースがぶちまけられ嫌な臭いがしていた。

TVやプリンターは倒れ、人形ケースと茶箪笥は倒れた拍子にガラスが割れて散乱してしまった。テーブルの上のノートパソコンだけは無事。

 片づけをしている時に電話が鳴った。会社からだ。自分の仕事は曜日に関係がない。夢中になって片づけをしているうちに時間を忘れていた。壁の時計も止まっていた。休ませてもらった。
 電気が止まり、水道が止まり、ガスはLPだけど安全装置が働いて出ない。朝食はカセットコンロでポットの中のお湯を沸かして、食パンとお菓子。
 昼前になって食料を求めて宮内の原信(スーパー)に行った。外にレジを出して手売りをしていた。時間をおいて人数制限をしていた。やはり乾き物系統ばっかりで、カップめんにクラッカーにレトルトのおかゆとペットボトル飲料、生ものでは唯一みかんを買って来た。値段は通常の安い価格だった。
 水はポットと風呂の中にあるだけで近くの山の水でも汲んでこようかと思ったが、消雪用の深井戸から自噴している事を思い出し、何とか少量ながら汲み出せた。見た目は透明の水だが沸騰させてから飲むことにした。
 固定電話は停電でもかけられるはずなのにかけられない。かかっては来るのにおかしい。昔のダイアル式の電話を取ってあったので付け替えたら使えた。でもベルが小さいので別の部屋にいると気が付かない。
 この日も車で農園の駐車場で寝た。しかし、夜の2時ごろ家人が家に帰ると切羽詰っていうので家に戻った。余震は怖いけどそれ以上のものがあるのだと思った。自分の布団はやっぱり良い。
ブロックの壁が倒れた。
塀のそばは怖い。
10月25日(月)
 今日から職場に出たが、余震が続くため家や家人が心配だ。昼休みに夕食を買いに職場の近くの宮関の原信に行った。カップラーメンや袋のラーメンは全く無くなっていた。でも惣菜などは少量だがあった。精進寿司があったのですばやく買った。調理パンもあったので買った。昼食は近くでやっていたどさん娘で味噌ラーメンを食べた。
 電気が来るという情報は何回もあったがその度に延期になった。職場から町内の人に聞いたがまだだという。
 ロウソク立てを自作する。ロウソクの明かりで夕食。久しぶりに米を食べた。余震に怯えながら寝る。
ここが農園の駐車場。増澤町の避難所のテント。この時は一張りのみ。
10月26日(火)
 今日も仕事だ。こんな時こそ有休を取って家の補修などしたいのに取れない。因果な商売だ。昼休みに夕食と次の日の朝食の買出しに出る。疲れたときは肉ということで夕食として蓮潟のすき家の牛丼弁当を買う。昼食は趣向を変えて蓮潟のツチダ(スーパー)の寿司を買う。惣菜も多く出るようになった。
 帰宅途中町内に入って街灯が点いているのを見た。やった。やっと電気が来たか。家に帰ってブレーカを入れる。点いた。電気さえ入ればもうこっちのもの(なにが?)。電気が入って感激した。電気が入れば灯油式の温水器が使える。浅井戸のポンプが使える。ってことは風呂に入れるってこと。浅井戸は地震で揺られて濁っているが、温泉だと思えばどうってこと無い。
 夜が明るいって良いですね。ひっくり返ったテレビもちゃんと写る。ネットも出来る。なにより夜に本が読めるのが嬉しい。
これもバスの通行を阻んでいる。
その後
 家は大丈夫そうだが、家に上がる道路が少しやられた。道路のひび割れは日曜大工ならぬ、日曜左官でセメントで埋めた。土手側の舗装下の沈下は個人じゃどうにもならない。端だけなので車1台くらいは通れる。裏の山は今のところ大丈夫だ。裏の杉の木も倒れる気配は無い。その後水道も復旧したし、越後交通バスも臨時ダイヤながら11月17日から通るようになった。自分の家は災害の中では恵まれているほうだ。先日故郷の西会津町野沢で法事があった際に、たくさん見舞いを貰ったのが心苦しい。自分の誕生日の次の日に起きた地震は死ぬまで心に残ると思う。