一億総活躍の一員。
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    2015年11月17日の気持ち

 医学は延命だけでは満足されないようで、近年は平穏な死もその役目に入れているように思います。自分の場合、どのくらい生きてどのような死を迎えるのが本望と思えるのかはまだ分かりません。


     2009年9月14日9時6分
      信濃川土手左岸にて

 郷土の誇りの三島億二郎の碑と長岡赤十字病院。土手を散歩中に見かけました。この文とは特に関係ありません。
 最近は歯科、眼科、耳鼻科、或いは基幹病院にいる時間が増えました。つい自分の年齢や、寿命や老い先の事を何となく考えます。
 1億が総活躍するように健康寿命も延びているので、何かやりたい事を見つけなければ生かされている身としては申し訳ない気持ちもあります。皮肉です。
 定年になってささやかな年金の範囲で好きな事が出来る時間があります。死ぬ前にひと花咲かせられるかもしれません。自分のひと花って何でしょうかね。まあ他人に聞く事ではありませんね。
 自分の今は、死ぬまでの覚悟を決める準備期間という事にすると、大分余裕があります。考えてみるとこの世に思い残す事はあまりありません。せめて親よりも遅く死にたいという事ぐらいです。
 死ぬ事を考えたからといってどうなるものでもありませんし、死は止められないでしょう。コロッと死ねば問題なしです。
 間違って、寝たきりで生き残るのが困るかなと思います。その時、自分で自分を認識出来なくなっていればそれはそれで良いでしょう。
 健康寿命を越えて死ぬまでの間が問題なのですね。
 能天気に死ぬ前に何かしたいなどと思えるのは幸せだと思います。まだ人生に余裕がありますね。そうすると自分は余裕のあるクチですね。
 幼児の死亡が減ったから結果的に寿命が延びたと聞きました。でもそれだけではありませんよね。自分の祖母は50代で亡くなりましたし、祖父はその前に亡くなり記憶すらありません。
 50年前の60代と今の60代は元気さも違うと思います。やっぱり医学や食生活や諸々のお陰で健康になったのですよね。
 それでも、寿命が延びる事は善なのでしょうかと、最近思います。みんながみな、60歳くらいで死ぬのなら自分も60歳で死んでも嫌ではありません。
 80代でフェードアウトして死ぬより60代でカットアウトして死にたい。欲を言えば80代でカットアウトして死にたい。
 昔はあっけなく死んでいたのに医学が進歩して病気を克服したので、昔はかからなかった病気に、寿命が延びたためにかかるようになったように思います。
 それが進歩というもので、医学は病気との際限のない戦いをしているのですね。自分は頼んでいませんが。
 人を生かす事の進歩と同じように、人を殺す事も進歩をしているとテロ事件やアメリカの最新兵器を見るたびに思います。
 人を殺す努力を、人を生かす事に集約出来れば各々がもっと良い終末を迎えられるのではないかと思います。